・・・櫻井基延の嘆願書・・・・甚太夫家と系譜の一致を確認

延享3年(1746)に作成された大宮司復帰の嘆願書は、櫻井(じん)太夫(だゆう)が加賀藩士に仕官した寛保3年(1743)2月18日からわずか3年後に書かれたものであり櫻井(じん)太夫(だゆう)気多(けた)神社を離れた時代と重なるので、仕官した背景を知る上で鍵となる重要な資料となった。

『櫻井基延嘆願書』を参照しながら、気多(けた)神社大宮司家と(じん)太夫(だゆう)家の関係を考察した結果、権大宮司家と(じん)太夫(だゆう)家とは、系譜上の一致点が多く見られることが判明した。

櫻井(じん)太夫(だゆう)は、寛保3年(1743)2月18日に6代藩主吉徳(よしのり)の江戸藩邸に仕官している。翌年の延享元年に金沢城二の丸老女の沢野が亡くなった。

・・・甚太夫は、奥向最高職「櫻井」の・・・・養子ではないかと?・・・・

権大宮司を継いだ監物(せい)太夫(だゆう)は、先代(けんもつ)正基の甥であり、伯母の櫻井は、監物(けんもつ)正基の姉妹であった。

権大宮司を継ぐ監物清太夫と加賀藩士甚太夫とは、従兄弟の関係にあったと考えられる。

そうだとすれば、甚太夫にとっても、本郷上屋敷奥向最高位年寄の櫻井は、伯母にあたる。この年寄櫻井と、(じん)太夫(だゆう)の仕官時期は、時代も前後している。この伯母は、甚太夫の仕官のさいにも格別な影響力を持っていたのではないだろうか。

一般の奥向女中は、一代かぎりで一生奉公を原則としていた。

しかし奥向最高位の年寄には、養子を取る権利が認められ、藩士への登用が行われ家名が残されたようである。敷衍して考えれば、金沢城二の丸奥向老女沢井、あるいは本郷上屋敷奥向年寄櫻井の養子に櫻井甚太夫が入り、仕官する糸口となったと考えられないだろうか。

櫻井女史が長家の家老職山田五郎六郎の後家となるきっかけは、金沢城二の丸奥向老女の沢野の仲介であろうと推測される。山田五郎六郎の後家に入る時期と甚太夫の仕官の時期とは、ほぼ重なるようだ。

江戸表で、中老か年寄を勤めていた櫻井は、長年の奥向奉公を引退し、山田家の後家に入る見返りに、甚太夫の養子が認められたのではないだろうか。その働きかけには、金沢城二の丸奥向老女の沢野の存在が大きい。

奥向女性の養子の記述が、加賀藩侍帳などの公式文書には記されることはない。従って、甚太夫の家譜には、無論のことに触れられることもない。基延文書には、これら女性たちが権大宮司家の取り成し人と記されるのは、このような意味が含まれていたのだろうか。 

・・・封建時代の光り影・・・・

「甚太夫」が仕官し、奥向に「沢野」や山田六郎五郎の後家に入る前の「櫻井」が奉公した時代は、6代藩主吉徳公の晩年の時期で、大槻内蔵允(くらのすけ)に藩政の権力がもっとも集中していた時代である。

当時の社会では、一族郎党におこる果報や、罪も、罰も、すべてが連座して、親族一党に影響した。このように、封建社会独特な構造を考えると、この時代の権大宮司家と大槻内蔵允(くらのすけ)との良好な関係は、気多神社の社家の身の上に、結果として、様々な光と影をあたえたものと想像される。

大宮司ご先祖の足跡を訪ねて (6) 金沢 広済寺 2006/11/4~6
事前に電話で伺う事をお伝えしてあったので住職夫人は過去帳を準備していてくださった。明治28年東京で亡くなった八百・大御祖母様も記帳されていた。(明治45年に夫である甚太郎の50回忌に遺骨を東京に移し、八百と合葬する)既に亡くなられていた先代住職母堂は「子供の頃に櫻井家のお墓を東京に移す事を覚えていた」と家人に語られていたと伺った。今回水子や早世された子供や女性たち計9名の記帳が新たに確認された。 能登・加賀・櫻井甚太夫家消息(PDFにつき開くのに時間が少々かかります)

櫻井正範氏の見解